90歳を超え、今なお健在な私の祖母は、女学生の頃は書をたしなむ、
今で言うハイソサエティなお嬢さんだったらしい(本人談)。
書の腕前も相当なもので、かなりいいところまで言ったらしい(本人談)。
皮肉屋かつ批判精神旺盛な、まるでロンドンのパンクロッカーのようなばあさんで、
ある時、祖母が両手をポケットにつっこんだまま駅の階段を降りているのを、私の母がとがめたところ、
「ポケットから手を出せばいいのか」と言って、両腕を思いっきり天に突き上げながら階段を降りていったらしい。
思春期真っ盛りの高校生であった私にキルケゴールの「死に至る病」を紹介するなど、
私にとっては非常に啓示的な存在であったように思う。
私は子どもの頃から字が汚く、コンプレックスのひとつになっていた。
ある時、祖母が私に言った、忘れられない一言がある。
「字の上手下手は関係ない。大切なのは何を書くかだ」。
そして、私はライターになった。
ちょっと出来過ぎなような気がする。
だから私は書画の巧拙を見る目はまったく無いが、
そこに書かれた意味を知ることに興味を惹かれる。
昨日、家族と近所のショッピングモールに行ったところ、
小学生が書いた書がズラッと並べられていた。
さぁて、何が書かれているかな?
私は子どもの手を引き、わくわくしながら近づいた。
ギャフン!!
【電子申告】でんしーしんこく。申告などの国税に関する各種の手続きについて、インターネットを利用して電子的に手続が行えるシステムのこと。
大学時代の友人がフリーランスのカメラマンとして独立して8年が経つ。
もともと海外を旅するときの記録用として、フィルム時代の一眼レフカメラを触っていた彼だが、いつのまにかそれでメシを食っている。プロになってからも旅のクセは抜けず、旅の写真をメインの仕事にしようとなんとか頑張っているようだ。
そんな彼に転機が訪れたのは3年ほど前だったか。貧乏旅行作家の草分け的存在である下川裕治氏から声がかかり、下川氏に同行して書籍の写真を撮るようになった。現時点で「鈍行列車のアジア旅」 「週末アジアでちょっと幸せ」という文庫本に、共著というかたちでまとまっている。昨年の夏には取材中に撮りためたアジアの写真で初の個展も開いた。
僕も旅好きだから、第三世界に暮らす人々にカメラを向け続けるということとが、簡単ではないということは想像できる。しかし、彼のファインダーの向こうにいるタイの子供やフィリピンの貧民の表情は、極めて自然であり豊かにも映る。どのようにして懐に入っいくのか。技術論ではなく、無意識にシャッターを切っているのが彼のやり方な気もするが。
© Hiroshi Nakata Photo Office
去年、僕は結婚した。
酒をこよなく愛する彼は、千鳥足になりながらも新婚夫婦にレンズを向けていた。
ひと月ほど経ち、彼からデジタルデータと一冊のアルバムが送られてきた。今、改めてそのアルバムを開いてみると、写しているはずの彼の存在を感じる。そこに写っている我々もタイの子供とダブって見える。
昨今デジタル化が進み、写真はあまりに身近なものになった。
そこで撮影し、そこでソーシャルメディアを介して世界に公開することも日常となった。
しかし彼の作品を見ていると、写真が狭く頑固なものにも見えてくる。
オリジナリティーをもっていれば、無限にも見える今日の情報世界でもアイデンティティーを見失うことはない。
もし彼にプロダクトや建築を撮らせてみても、そこにもやはり彼がいるのだろう。
先日、2泊3日の仙台出張にかこつけて、被災地と呼ばれる沿岸部まで足を伸ばしてきた。
遅ればせではあるが、やはり自分の目で見ておきたかったので。
仙台市内は各所で工事が行われているものの、
地震や津波の爪痕を目の当たりにすることはなかった。
街を行く人々の表情も、名古屋のそれと変わりなく感じた。
バカなヤングはとってもアクティブだし、
私は相変わらず、それを横目に舌打ちをひとつ打っていた。
それでも中心部を離れると、手つかずのアパートが廃墟になっていたりした。
タクシーの運転手さんや地元の料理店の人にそれとなく話を聞いてみると、
やたら「復興バブル」という言葉を耳にした。
昨年の夏までは公務員やボランティアが大挙して押し寄せ、
歓楽街を中心に、それはそれは好景気だったそうだ。
何となく煮え切らない感情が残ったものの、
まぁ、そんなものかと、わからないでもなかった。
3日間の滞在中に読んだ新聞(朝日)に放射線情報がまったく載っていなかった。
ちなみに、中日新聞は毎日の名古屋の放射線量を掲載している。
私は脱原発を妄信しているわけではないし、ネット住民のような裏読みもしないが、すごく違和感があった。
街のいたるところで「がんばろう東北」というフレーズを見た。
「がんばろう東北」というフレーズだけだった。
名古屋にいると「がんばろう東北」はもちろん、「がんばろう日本」もよく見る。
それに気づいた時、私が仙台で感じた違和の正体に合点した。
そうか、私は当事者ではないのだ。
仙台を離れ、沿岸に行くと、あちこちに被災の跡が残っている。
そこに何も存在していなくても、かつて、そこに暮らしの営みがあったことがわかる。
その生々しさ。
被災地の外に暮らす人間がどれほど復興を語り、行動を起こそうが、
とてもじゃないが力になれないと脱力した。
現地に行った人々はよく「絆」という言葉を口にする。
私はその度に白々しさ、胡散臭さを感じていた。
私はよほど心が汚れているのか、現地に行って確信した。
多分、私は被災者の方々と「絆」は紡げない。
当事者にはなれないのだ。
「絆」って一方的に押し付けるもんじゃねーよな。
先日、法事や供養事でお世話になっているお寺で永代経のおつとめがございました。
1年に1回の行事ですが、毎回、おときをいただき、1時間ほどお経を読み、
おっさま(わしらは住職のことを、こう呼んでいる)からの講話を聞き、
お供え物を分けていただき、帰途について(わしは)ビールを飲みます。
おっさまは32歳の若さ。講話の題材も「もてる男とは分別のある男性か」という、
体重約80キロ、ぽっちゃり体型のおっさまによる「もてたい願望」が
ひしひしと感じるものでございました。
そのお話の中で、こういう書物が出版されているというご紹介をされました。
まあ、このときの檀家さんも、わしらをはじめご高齢の方がほとんど。
お若い女性の方も足を運んでいただければ、ひと雰囲気も変わるのでしょうが…。
講話の締めは、「実はわたしも婚礼が決まり、来年2月に結婚します」ということ。
約100名の檀家さんから祝福の拍手がわき起こりました。
南無阿弥陀仏。(これ、祝福の言葉なんです)
避難訓練なんて学生以来やっていませんが、
シンクスが移転したこのビルでは避難訓練があるようで。
本日参加しました。
と言っても、ひたすら階段を下りるだけの避難訓練です。
10F…つらい…
普段デスクワークの我々にはなかなか…
同じビルの人々が集まる事なんてないですよね。
ちょっと異様な光景なエントランス。
その後は消火器の取扱いを教わりました。
とってもレトロな訓練マシーン「くんれん君」は
その役目を果たせているか微妙なくらい満身創痍でした。
出しゃばる私。
帰りも何故か10Fまで階段で上がるという
ドMな事をして帰りました。
防災意識って大切ですよね!死にたくない!生きたい!
死にたくない!生きたい!私も!!!(防火・防災責任者)
イケメンから癒し系、クリーミー系までって、
…クリーミー系ってどうよ。
うちのチームのおっさま、
イケメン美坊主に意識しちゃってるね!
The king Ossaman。
cream系。ちょっと、めんどくさい系ってことでしょうか。
若い女性ではないですが…私も寺に足を運んでお坊さんを愛でたいものです。
余談ですが、先日祖父の法事で寺に行った折、父が骨壺をバンダナで包んで持ってきていました。超カジュアル。
コメントありがとうございます。天パさんは、お坊さんに興味がおありなんでしょうか。それとも、わたしに興味がおありなんでしょうか。なにはともあれ、包むモノは唐草模様でなければ大丈夫です。南無阿弥陀仏。
先輩、コメントが早すぎます。
てきぱき、ちゃっ、ちゃっ。生き急ぐのじゃ。