夜明け前(中)
市を横断する基幹道路と交わる仲田路も、夜明け前ともなれば車の往来は途絶えている。救急車のサイレンは聞こえてこない。野次馬もいない。静かな雨のせいか、交通事故が起こったばかりだというのに、静寂さえ感じる異質な時間が流れていた。
人に貸して我に傘なし春の雨
私は、私の最も好む子規の句を思い出していた。雨に濡れ、寒さに震えながら、もっと暖かな日であれば、句のような風情を味わえたに違いないのだが。
私は濡れた道路に横たわったままの男にあらためて声をかけた。
「自分の名前はわかりますか?痛むところはありませんか?」
我ながら、的確だと思った。そして、恥ずかしながら、英雄的な気分さえ感じていた。男は私の問いかけに大袈裟に頷きながら、「大丈夫、大丈夫」と繰り返し、私が男のために傘を差していることに気づくと、「どうも、すみません」と言った。男は依然、横たわったままだが、その仕草や表情に無理している様子はなく、どうやら本当に怪我は大したことがないようだ。私には随分、余裕が生まれていた。
自分が傷つけた男の生命に別状は無いことを確認しても、運転手は相変わらず呆然としている。私は社用車で飲酒運転をし、人身事故を起こしてしまった彼の今後の人生を幾通りか想像した。そのどれもが芳しいものではなかったが、私に同情という感情は湧いてこなかった。私は路に倒れたままの男を俯瞰し、失策を犯した一人の男の人生を俯瞰した。自分がこの空間を司っている錯覚に酔いしれていたと言っていい。運転手が傘を差して、自身の身体を冷たい雨から守っていることに、腹立たしささえ覚えたほどだ。2人の弱者と、無償の労を厭わない英雄という構図がそこにあることを、私ははっきりと自覚していた。私の黒い塊は闇と解け合っていた。
「腰が痛くて動けない。起こして…」。
倒れていた男は私に懇願するように言った。